広島女児殺害事件

昨日、広島県安芸市で当時小一の女の子が殺害された事件の地裁判決が出た。判決は無期懲役。極刑を望んで実名まで公開した両親の想いは(取り敢えず一審では)届かなかった。
幼い子供を狙う事件が頻発する中、2人の子供を持つ身としては決して数々の事件は人事ではない。その中でも、この事件については、あえて実名を公開してまで極刑を望んだ両親の気持ちに共感する面もあり、特に注目していた。
実名公開は、おそらく過去の判例から極刑適用は困難との感触を得ていた両親が、世論を味方に付けて判例変更を目指したのだと思うが、判決は刑事責任能力を認定した上で、「卑劣、冷酷というほかない犯行」と言い切ったにもかかわらず、「矯正不可能とまではいえない。死刑で臨むには疑念が残る」と結論付けて、無期懲役刑を適用した(但し、すぐに犯罪者が出所してくるという批判に応えてか、「一生かけて償うのが相当で、仮釈放については可能な限り慎重な運用を希望する」との付言がなされた)。
少し刑法を勉強すると分かるが、極刑適用には明らかに「被害者数基準」が存在する。殺人事件で被害者が一人で極刑を宣告されたのは、強盗や誘拐など金銭目的の事件や再犯の場合が大半というのが実情だ。このことが痛いほど良く分かっていたから、両親は、「七歳の女の子への性的暴行は拷問に等しい。一度ならず二度命を奪った犯人に極刑は当然」と実名公開の理由の中で述べ、「殺したのは一人でも罪の重さは単に一人殺しただけではない」と世間(裁判官)に強く訴えたかったのだろう。
しかし、この適用基準って何なんだろう。弁護士は、この手の事件になると必ず、心神喪失(耗弱)と併せて、量刑適用の際にこの基準を持ち出してくる。しかし、これだけ凶悪犯罪が頻発する中で、何十年も前の永山則夫事件の際の判例を適用することに無理はないのか。強盗や誘拐と、わいせつ目的で殺害に及んだケースと何が違うのか。一審判決には、子を持つ親として理解できない点が多い。
もし自分が同じ立場だったら、「自分も殺してもらって被害者を二人にして極刑を適用してくれ」と差し違えすら望むだろう。そのような被害者の遺族の感情を十分に尊重して、最高裁(どうせ勘違い人権は弁護士は、最高裁まで上告するだろう)には英断を望みたい。