聖地・甲子園の虚構

夏の甲子園は、延長再試合の末、早実の初優勝で幕を閉じた。早実の斎藤投手は4連投・計42イニングを一人で投げ抜いて甲子園優勝投手の栄冠を手にした。敗れたとは言え、前人未到の3連覇目前まで迫った駒大苫小牧も、十分賞賛に値する活躍だった。
しかし、個人的にはどうしても甲子園は好きになれない。勿論、野球は30年以上のファンだが、いつの頃からか高校野球は見なくなった。理由は簡単、あの選手(特に投手)酷使がいつまで経っても改まらないからだ。今回の斎藤投手の4連投は言うに及ばず、相手の田中投手だって(最初の3回程度は控え投手が投げていたが)3連投だ。プロの抑え・中継ぎ投手ですら、連投が続くと疲労の蓄積を懸念されるのに、先発・完投の投手が何連投もして良い訳がない。しかし、現実は甲子園の仕組上、一人で投げ抜くには(くじ運次第では)ベスト16から4連投を余儀なくされる。今回の斎藤投手のように、引分け再試合でもあれば更に増える可能性だってある。もっとも、斎藤投手は選抜でも連投していたから、もう慣れっこかもしれないけど。そうだとしたら、悲しすぎる現実だろう。
勿論、出場している選手は当然勝ちたいから、無理をしてでも投げようとするだろう。しかし、それを抑制するためのルールを設定するのが、大会主催者の高野連の務めではないだろうか。そもそも、全ての試合を甲子園球場だけでやること自体に無理がある。もっと、複数の球場で分散させて試合をすれば、大会日程を短縮できて休養日を設けることだってできるはずだ。真夏の炎天下で試合をする必要だってなくなるだろう。高校サッカーだって、国立競技場で全試合やったりはしない。何故、高校野球だけが、全試合甲子園でやらなければならないのだろう。それが、球児たちの憧れであることは理解できる。だからと言って、選手を潰しかねない運営が正当化される理由にはならないだろう。
特に、野球のように、特定の選手(ピッチャー)に過大な負担が集中するスポーツでは、他の競技以上にその点をケアしないといけないのに、現実はどうだろうか。何年か前に、高野連が連投を抑制する動きを見せたことがあり、遅ればせながらやっと改善に向かったか、と思ったのもつかの間、あっという間に勝利優先の方針の下、忘れられつつある。現実が、部活の枠を超えて商業化している以上、自主規制に頼るのではなく、一定以上の連投ははっきり禁止すべきだ。それでも、試合日程に余裕を持たせれば、かつての伊野商業の渡辺(智)投手のように突然現れる新星だって登場する余地は残されるだろう(もっとも、彼も西武に入ってからは怪我で大成しなかったけど)。
とにかく、甲子園優勝投手に大成した選手はほとんどいない(最近では、桑田、松坂くらいではないか)という何度も指摘されている現実を、今回の早実の優勝で忘れてしまうことなく、関係者は強く意識すべきだ。後の怪我に泣いた多数の選手のことを、皆ほとんど覚えていないだろう。高校生が人生のピークだった(それ以前に怪我に泣く選手だって沢山いる)という才能豊かな若者を大量生産する甲子園という虚構が、一日も早く改善されることを毎年この時期に願っている。